組織開発
あいつはできない奴だ、 と切り捨てる側の無能。
「あいつはできない奴だ、と切り捨てる側の無能。」
この言葉は、以前制作した入社案内・会社案内パンフレットのタイトルでもあります。『回転寿司の根室花まる』を展開する、(株)はなまるという会社で、地元北海道はもとより、東京の銀座や丸の内にもお店があります。
http://www.sushi-hanamaru.com/
社長は、はっきりとおっしゃった。「僕も能力はない。大事なのは熱意。だから社員を能力で判断しない」と。この言葉を聞いたとき、社長の「人間観」を柱にしたパンフレットをつくろうと思いました。
世の中には、“できない人”もいる。その仕事や会社に合わなくてもっと自分を生かせる仕事や会社を探そうと、転職する人がいる。
これが現実ですが、もう一つ現実があると思う。「できる可能性がある人」を「できない人」にしてしまう「できない先輩や上司も少なからずいる」という現実だ。
彼らは自分の無能を自覚せず、今日も“できる人側”の座敷であぐらをかき、“できない奴”の話を肴に酒を飲むだろう、という現実だ。
できない奴らだ、と嘲笑い、笑い者にすればするほど、“できる自分”の座布団は増え、高見から見下ろせる。これほどうまい肴はめったにないだろう。
彼らのマネジメント概念は、管理と短絡的な値踏みだけで、『育成』というタスクは、ほとんど入っていないようである。もし入っていれば、育てられなかった自分の至らなさ、未熟さが、酒席で少しはこぼれるはずだ。
2018年の統計で、日本の時間あたりの労働生産性も、日本の1人あたりの労働生産性も、OECD加盟36カ国中21位。かつての経済大国の面影は、もはやない。
日本の生産性が低い理由は、「管理と短絡的な値踏みだけで、『育成』ができないマネジメント構造」も、大きな要因ではないか、と私は推測している。
なぜ育成できないか。日本はそもそも従来から、ジョブ型の採用ではなく、メンバーシップ型の採用を慣行としてきた。
ミッションとタスクが明快な「ジョブ」のプレーヤーとしての採用ではなく、会社という組織に「メンバー」として帰属することを前提とする採用だ。
2つの違いを明確にするために、わかりやすくいうと、「プレーヤーにはプレーの質が要求され評価される。」そして、「メンバーにはメンバー間での協調性と全体最適の中での協力が重要視され評価される。」ということになる。
どちらが、プレーヤーとしての能力が開発されるかは、はっきりしていると思う。日本は、プレーヤーが育ちにくいスパイラルが、体制として社会的に構造化されてしまっている、とも言えるのではないか。
プレーヤーとしての能力を磨くことを最重要視してこなかった人に、「質の高いプレー」を教えることなどできないのは自明である。
結果、「育成型マネジメント」などほぼできようはずもなく、マネジメントは「管理のための管理」に堕することになり、「管理のための管理」がタスクになれば、いかにどこを減点するかが当人の主業務にならざるを得ない。
そして、「できもしないのにグチグチいちゃもんつける人」が必然として、当人の定位置になるのだ。
それほどたいしたプレーもできないのに、自己演出と上長への取り入りに熟練したな者がマネジャーとして出世する。実際、若手たちの上司への愚痴を聞くと、そういう類の話が少なくない。
そんなスパイラルが既得権化し、既得権を得た者はこれまた必然として、そのスパイラルを死守しようとする。そのスパイラル上に乗っからない不届き者は、排除せよ!だ。
なぜなら、そのスパイラルを壊すことは即、自己破壊、自己否定につながるからである。完全無欠の自己保身である。
NHKのEテレで『奇跡のレッスン』という番組を見た。メジャーリーガーの名投手、ランディ―・ジョンソンが、日本の中学生の投手(男女)たちに、8日間レッスンするというドキュメンタリーだ。
サイヤング賞5回の大投手は、すばらしいコーチだった。
マウンドでは誰もきみを助けてくれない。堂々としよう。対戦相手は見ているぞ。一球一球を考えて、ていねいに投げよう。一球一球、自分で悪いところを修正しよう。
修正、修正、修正。自分で自分をコーチするんだ。次の一球で、自分を変えるんだ。
私はそうやって一球一球修正を重ねて、野球人生を生きてきた。練習、練習、練習、試合、練習、練習、練習、試合の連続だ。
そんな野球哲学を静かに、中学生たちに伝えていく。マウンド上での挑みかかる猛禽類のような、あの猛々しい表情はそこにはない。
アドバイスは具体的だった。きみは踏み出した足のつま先が、横に流れている。ボールに力が乗らないよ。制球も乱れる。つま先をホームベースにまっすぐ。
きみはもっと軸足にタメをつくって、踏み出した足の親指の付け根の母指球に体重を乗せるんだ。カカトに乗せると、足が流れてしまうぞ。
きみは腕より先に、体が前に出すぎだ。腕が遅れすぎると、ボールの手離れのポイントが後ろになる。だからボールが浮くんだよ。
サメが獲物を狙うように、この試合は自分のものだ。誰にも渡さない。そんな強い意志を持って投げるんだ。その意志は、私もつくってあげられない。自分でつくるんだ。だいたい、そんな内容だった。
一球ごとに修正の大切さを説くランディー・ジョンソン。練習ではていねいに助言しますが、試合中は修正点を教えません。
試合中の投手は、孤独の中、自分で自分をコーチするしかないからでしょう。
レッスンの結び、教え子の投手たちは、強豪チームとの試合を迎えました。緊張の中、自分と闘う中学生たちに、すごく感銘を受けた。
一人ひとりが、試合中に一球一球投げるたび、自分のいまを見つめ、自分で自分を修正していたからだ。ランディーの助言を自分のものにし、自分を自分でコーチし、次の一球で、自分を変えていたからだ。
ランディーはきっと、日本の中学生たちの成長を思い出し、おいしい酒を飲んだだろう。そして、「あの場面では、あの中学生にこう助言するべきだったかな」と自分を修正し、次のコーチングに生かすだろう。僕の勝手な想像ですが。
座布団のうえで高あぐらをかいている大人たちは、『奇跡のレッスン』を受ければ、果たして変わるのだろうか。気になりました。
もっと気になったのは、自分も、そんな大人の一人じゃないだろうか、ということです。