面影

私から離れて遠いところへいってしまった。

時間的に遠くへ。
距離的に遠くへ。
心情的に遠くへ。
死別により遠くへ。

そんな人や風物の「面影」を、
私たちは日々どのくらい見ているのだろう。

光が眼球を通過し、映像が視神経を経て
脳に伝達されて見える現実。

そんな「現実と呼ばれる現実」だけを、
人間の眼と心と脳は
見ているわけではない。

単なる幻影だ心象風景だと
まわりは笑うかもしれないが、
揺るぎのない実感として、
人はそんな「個的現実」を
現実に見ることがある。

他者にとっては幻影でも、
その人にとっては実存なのだ。

きょうも街角では
面影たちが、
誰かの眼にいくつも
映し出されていることだろう。

ときには姿を変えて。
ときには視覚ではなく、
匂いや音、手触りへと感覚を変えて。
しかし実存として。

小林秀雄の文章を紹介したい。

(※以下、『小林秀雄全作品 別巻1』11-12頁より抜粋。)

母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかつたし、話したことはない。尤も、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」という題を思い附いて、よほど書いてみようと考えた事はある。今は、ただ、簡単に事実を記する。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れることが出来なかった。ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に附する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困ったことがある。実を言えば、私は事実を少しも正確に書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼(か)も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書くことになる。つまり、童話を書くことになる。後になって、私が、「或る童話的経験」という題を思い附いた所以である。

小林秀雄は言う。
「寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。」

誰がどこからどう見ても「一つの具象」、という現実は、存在しないのだろう。
目から見えるものには、必ずその人の「心」、というフィルターがかかるのだから。

ではそれが単なる抽象かといえば、違うだろう。
花屋の前に立っていた面影は、その瞬間、その人の心の中に確かに立っていた実存なのだから。
これを抽象と呼ぶなら、人間はほぼ抽象という「童話」を生きている、ということになる。

抽象を生きている、という言葉が馴染まない人は、
「人は具象を正しく捉え、現実に即して生きるべきだし、私は生きている」という心のフィルターを強くかけてものを見ている人、と言うことができるかもしれない。

私たちが生きる半分はビジネスの世界である。ビジネスは利得の世界だ。
利得の世界では、「現実・現場・現物を見ろ」とよく言われるし、よい判断のためには不可欠だろう。

しかし、「現実・現場・現物」をどれだけ目の前に晒しても、その解釈が的ハズレな人はいる。
現実が見えていないのではなく、現実がどう見えるかは、心や思考や志向のフィルター次第だからだ。

その「現実」は、どのようなフィルター越しに見える「現実」なのだろうか。

PERSON